社会学の終わりとジンメル的エートス(2004年)

By | 8月 18, 2017

2004年9月25日 高野山カンファレンス
デュルケーム=ジンメル合同研究会報告書

社会学の終わりとジンメル的エートス
 ——ディシプリン的知識空間をめぐって——
             野村一夫(国学院大学)

■1 はじめに
 今回のカンファレンスでは非常に大きな問題設定がなされている。それに見合う大味な話をしなければならないだろうと受け止めて、テーマを決めようと思った。そこで思い浮かんだフレーズが「社会学の終わり」というものだった。社会学が「近代の自己意識」であるとすると、「ポスト近代の自己意識」として「ポスト社会学」というものが語りうるかもしれない。あるいは「ポスト社会学」としての新しい社会学像(それはもはや社会学ではないかもしれないが)を思い描くことができるかもしれない。
 じつは2003年に書いた社会学入門書の末尾を私は「社会学の終わり」について語ることで締めた。たかが入門書であるとは言っても、社会学がどうなっているのかという問題は、まさにこういうところでこそ問題になるものだ。つまり、教え、教育する場面、つまりディシプリン的知識空間においてこそ、言及を迫られるものなのである。だからこそ、教科書問題や社会学教育を論じることは、とても重要であると私は思っている(野村 2003)。そこで今回はこれについて語りなおしてみたいと思う。
 他方、ジンメルは「社会学の始まり」をめぐって言及されるのが普通のことになっている。だが、「社会学の終わり」について言及されることはまずなかったと思う。もちろん社会学史的には「始まり」が大事なのだが、21世紀的現実を目の当たりにしている現在、社会学というディシプリンの限界地点を見通してみるということも必要ではないだろうか。そしてジンメルの仕事がそのさいの導きの糸になりうるものなのかどうか、検討してみたい。

■2 ディシプリン的知識空間
 経済学部にいて感じるのは、通常科学(ノーマル・サイエンス)というものは、じつに確実に、そして保守的に再生産されるものだということだ。古い理論が生き残っていたり、学風の世代間格差があって、多少の付加要素やはやり廃りはあるものの、教育されるものとしてのディシプリンは基本的に自明視されている。何が中心で何が周辺なのかも、かなりはっきりしている。何よりも、経済学者たちは経済学そのものを疑ってはいない。その確信こそが知的エネルギーを再生産しているように見える。
 それにくらべると社会学のディシプリンはどうだろうか。
 理論的には、1960年代に始まる多元的パラダイムの競合状態はまだ続いている。それどころか、当初はそれほど大きなものとは認識されなかったものの、しだいに影響力をもつようになったカルチュラル・スタディーズや社会構築主義も参入して、ますます多元化していると言えるだろう。
 とは言っても、研究活動そのものはパラダイム対立でちっともかまわない。理論の対立、ミクロとマクロの対立、そして新旧世代間の対立は、学問であれば当然生じることである。社会学の場合は、その程度がいささか激しいというだけである。
 しかし私は「教育の第一次性」「教えることの第一次性」の見地から、ディシプリンを問題にしたい。ディシプリンはディサイプル(高弟)によって教育の場で踏み固められていくものであり、学校や大学という再生産機構において教育プログラムとして制度化されていくものである。
 では、社会学の名の下に何が教育されているのか。
 教育されるものとしてのディシプリンとしては、たんに「多元主義である」とか「パラダイムの相克」などと他人事のように語ることはできない。それを学生に対して正直に告白したところで、社会学のディシプリンが伝えられたとは言えない。パラタイム多元主義であれば、それを基礎付けるメタパラダイムが説明されなければならない。ディシプリン的知的空間では、ここをきちんと処理しなければならないのである。
 社会学教育の困難は、まさにここにある。
 この困難を乗り切るために、これまで社会学者たちは、講義や論文指導や教科書執筆のさいに、どれか特定のパラダイムに依拠して説明するか、あるいはセカンダリーなパラダイムを代用してきた。後者が、いわばデファクト・スタンダードになる。たとえば次の三つのパターンがその代表的なものである。
 第一に、古典の応用。たとえば、デュルケム自殺論(あるいはアノミー論)から現代の自殺や社会病理的傾向を読んだり、ウェーバーのカリスマ論や宗教社会学で現代の宗教状況について語るといった説明がそれである。この場合、古典解説的な記述が主になるだろう。
 第二に、機能主義。とくにマートン的な温和な機能主義が主流である。リベラルなものの見方(通念からの一回ひねり)に対して、もうひとひねりする言説になる。つまり二回ひねりである。教育的水準としては適当なレベルになるので、機能主義者でない社会学者も、この種の説明に落ち着きやすい。マートン的なひねりのきいた解説でもって多様な現象について語れるだろうが、アイロニカルな社会学像が前面に出る。
 第三に、アラカルト方式。テーマに即して理論を使い分けるものである。理論間の整合性は気にしない。その場その場で説得性があればよいという落としどころである。10人前後で機械的に割り振られた編集ものの教科書は、このパターンを踏みやすいが、トータルな社会学像が浮き彫りにならず、社会学概念について読者が混乱する。ディシプリンは伝わりにくい。
 理論的にはまとまらないので、方法的にまとめていこうというのが近年の流れである。社会調査が標準化されている点では、ディシプリンとしての社会学の軸は社会調査という研究方法にあると言えそうだ。しかし、量的調査にせよ質的調査にせよ、これ自体は通常科学の求めるエビデンス依存型の学問であるという以上のものではなく、その研究が社会学であらねばならないという必然性は薄くなる。
 ということになると、やはりテーマで特徴を出すしかなくなるが、こちらはこちらでアポリアがある。

■3 残余概念の逆襲
 ここ20年ばかりを振り返って、社会学において新領域として一気に大きなテーマ空間を占めるようになったものとして、身体、ネット、環境、国際社会がある。
 身体の社会性・権力性の問題についてはフーコーの知的影響が強いが、ブルデューのハビトゥス論もある。もちろん古くはモースがやっていたわけだが。従来の医療社会学に加えて「健康と病の社会学」と呼ばれる領域拡張があった。「健康と病の社会学」は、名前は凡庸だが、基本的には社会構築主義の立場から、領域を拡張する試みである。健康ブームの分析や医学的知識の構築性などがここに入るわけである。さらにこれに先端医療や生命倫理の問題が加わる。
 ネットについては、パソコン通信時代からインターネットにかけて、ネットワーク・コミュニケーションがある種の新しい社会領域をつくりだしたことに対応している。CMC研究はその典型であるが、ネットワーク空間は日々膨張しており、かつての見晴らしのよい開拓地が昨今はすっかり都市化されて、とても一望できるものではなくなってしまった。ここは現実の社会と切り離されているわけではないが、独自の秩序と無秩序によって言説空間が織りあわされている。たんに公共圏といってすまされるような単純さはすでにない。
 国際社会については、冷戦構造においては国家間関係が最大の焦点であり、政治学や国際関係論がそれをとりあつかってきたが、冷戦後において、さまざまなアクターが国際社会の舞台に登場するようになり、国家に限定されるものでなくなった。従来は先進国に範囲をしぼって説明できればよかった社会学も、グローバル化せざるをえなくなった。
 たとえば、最近の社会学教科書を編集する上での大問題は、国際学関連のテーマについて、どの程度紙面を割くかである。グローバリズムや民族問題や戦争とテロリズムなどの問題は避けて通れないが、それらは社会学固有の問題を超えており、なおかつ、それに言及するとなると、それ以外の部分もあわせて国際学化しなければならなくなる。ギデンズの『社会学』がその好例である。それは論理的に一貫しようとすると『グローバル・ソシオロジー』にならざるをえない。
 このように、新領域の採用は、ディシプリンとしての社会学を大幅に改訂せざるをえない側面をもっている。たんに教科書に一章を追加するようなものではない。
 グローバル化と同じことは「ジェンダー論化」にも言える。ここでもギデンズの本は先駆的なテキストである。すべてのイシューについてジェンダー論的増補改訂を入れなければならない。フェミニズム論に依拠するならば、社会学は隅から隅まで「ジェンダーの社会学」でなければならない。
 環境やエコロジーも大幅に導入された。これまで排除されてきた自然環境や生態系が社会学に導入されることになった。これもまた新領域が加わった以上のことを意味する。
 環境社会学の一系譜によると、これまでの社会学は「人間特例主義」だったのだから、これを改めて「新エコロジカル・パラダイム」に移行する必要があるという。つまり、人間は例外的に文化的特徴を持つが、地球生態系に依存しているひとつの生物種であると言うのである。これは社会学にとって新しいパラダイムである。
 生活環境主義の時代は終わったようで、環境社会学の研究者は社会学との接合にかなり苦労している(飯島ほか 2001)。それがなぜ社会学でなければならないのかが、環境学全体においてたえず問われるからである。悩むのは当然である。20年程前には社会学のディシプリンにほとんど存在しなかった生態系という概念を導入することによって、新しいディシプリン(あるいは大きな修正ディシプリン)が要請されるのは当然である。
 これらの新領域に対応して言えることは、さまざまな分野で「残余概念の逆襲」が生じているということである。ちなみにこのフレーズは政治学者の松本正生が無党派層について指摘したものである(松本 2001)。無党派層は、それこそ政党支持者の「残余」として扱われてきた(無視されてきた?)が、もはやそれが投票行動分析の中心になったということである。政治学も無視できなくなったということだ。
 「残余概念の逆襲」は「周縁の中心化」と呼んでもいい。ともあれ、社会学が19世紀末から20世紀前半に確立したときには「残余」「周縁」「未知」だったテーマが、パラダイム変換を伴うような重要なテーマとして中心化したのだから。
 このような問題について、個々の研究の場面ではそれほど悩むことはない。しかし、社会学の全体像について語らなければならない講義や教科書づくりにおいては非常に苦労するところである。教えられるべき知識空間としてのディシプリンが非常に複雑かつあいまいになっている。
 私自身は、かつてこれこそ「脱領域の知性としての社会学」ならではの現象だと説明していた(野村 1992)。けれども、テーマ領域の分化と拡張は、それを無批判に採用するかぎり、社会学がどんどん肥え太っていくばかりである。
 しかも、問題なのは、それを担っているのが必ずしも社会学的研究ではなくなってきていることである。この状況の中から、ディシプリンとしての社会学を描き伝え教育するのはますます困難になる。

■4 学際的問題領域研究
 社会学と称されているディシプリン的知識空間の内部から、目を学問研究活動全般に転じてみれば、社会学の延長上にありそうな研究を他のディシプリンの人たちがやっているということが見えてくる。
 すなわち、現時点では社会学者の仕事を引き受けているのは、もはや社会学者だけではないのだ。
 たとえばスポーツ社会学という分野があるが、じっさいに研究している人たちの多くは、社会学的ディシプリンの洗礼を受けている者という意味での社会学者でない場合が多くなっている。もちろんすぐれた業績があるのだが、スポーツ研究に明確なディシプリンがあるわけでないので、社会学というディシプリンが借用されているという具合である。
 看護学においても同様のことが言えるのではないか。アンセルム・ストラウスらの「グランデッド・セオリー」は社会学的な見識から出てきたものだが、実際には看護学において広範な影響を与えており、「グランデッド・セオリー」による最近の看護学の論文は、ほとんど社会学と言ってよい印象を与える。
 ここで生じているのは「諸学の社会学化」である。「諸学の社会学化」とは、残余概念の逆襲に諸学が正面から対応し始めたということなのだ。
 この傾向は「○○学」(○○スタディーズ)とまとめられるようになったさまざまな新研究に顕著である。このような「学際的問題領域研究」の中で、日本語圏において比較的活発で、社会学と縁の深いものとしては次のものがある。
 環境学、国際学、平和学、情報学、女性学、障害学、カルチュラル・スタディーズ、科学技術と社会の研究(STS)、社会史(歴史社会学)、音楽史。
 ちなみに、これらの先駆形として、エリアスタディ(地域研究)がある。これは冷静構造の形成とともに、とくにアメリカにおいて地域研究の戦略的重要性が強調されたことに起源を持っている(ウォーラーステイン 1996)。
 これらの研究において社会学者の参加は必ずしも多くないし、主流をなしているとは言えない。しかし、われわれ社会学者から見て「社会学的」と見える研究が、これらの学際的問題領域研究には多いのである。
 既に述べたように、私は、十数年前に社会学の教科書を書いたときに、日本語圏において、このことに気づいて、それらを一種の「社会学的研究」として取り込んで紹介することにした。「諸学の社会学化」と認識したからだ。これらの成果は、社会学というディシプリン的知識空間に位置づけ可能であると判断した。こうした判断は、何も私だけでなく、すでに多くの社会学教科書が採用しているところである。
 しかし、その後の動向を見ると、果たしてこれらが「社会学的ディシプリンの浸透」の結果であったかどうか、非常に疑わしい。
 たしかに、これらの研究において社会学は一定の役割を果たしていた。しかし、社会学が先駆形として評価されるというよりは、批判すべき先行事例(たたき台)とみなされることが多いのではないか。そういう印象がある。
 おそらくその分岐点は、これらが倫理に踏み込むことである。それぞれのテーマにかかわる倫理的なエートスがこれらには共通していて、それが学際的研究の求心力になっている。しかし、社会学者はそれから距離をとろうとしたり、それらの逆機能をついたりするので、反感を買うことが多いように思う。通常科学の倫理化のもとでは社会学的研究は叩き台になりやすい。
 学問研究における「ポスト近代」とは、じつはこういう状況を指すべきではないかと思う。ディシプリンの力が弱まり、喫緊のテーマ(つまり残余概念の逆襲!)ごとに研究が寄せ集められる。それに対応して新しい学部や研究施設が立ち上がる。
 この状況において環境社会学のように自らのディシプリンの定立に自覚的に取り組んでいる領域はまだいいとしても、他の領域のように自らのディシプリンのアイデンティティがあいまいになっていくケースが増えているのではないか。たとえば情報学では、技術的な知識から人文学的な知識まで、渾然と同居しており、まさに学問的カオスである(北川ほか 2002)。

■5 一世紀後の「社会学の領域」問題
 ジンメルが一世紀前に批判的に対峙した総合社会学にかわって、今日では「諸学の融合」が私たちの前にある。総合社会学はひとつのパラダイムだったが、諸学の融合は研究対象によるパラダイムなき収斂である。
 この状況において何を社会学と呼んでいいのか。コンセンサスのレベルは低下している。
 以上のような学問状況から、少なくともディシプリン的知識空間において「社会学の終わり」という問題を想定していいのではないか。ほんとうに終わるのかどうか、わからないにしても、「終わり」というものがありうるということを意識していいと思う。
 ウォーラーステインは、この点ですっきりしている。個別の社会科学なんて19世紀から20世紀初頭の先進欧米諸国の知的空間を反映しているにすぎないのだから、いつまでもそんなものにこだわっていてはいけない。ひとつの「史的社会科学」でいいではないかというのである。(ウォーラーステイン2001)
 デュルケム、ジンメル、ウェーバー以来の社会学がモダンな20世紀的思想であったと割り切るのか。つまり21世紀においてディシプリンとしての社会学は終わりつつあるのか。それともひとつの「史的社会科学」に解消されてしまうのか、あるいは独自の「ポスト社会学」を構想するのか。いずれにしても「社会学の再定義」が必要になっているのではないか。
 ジンメルは一世紀前に「総合社会学の終わり」を宣告した人である。そして独自の対案として「形式社会学」(のちに「純粋社会学」)を打ち出し、ディシプリンとしての社会学の再定義に貢献した人である。
 と同時に、そこからはみ出す研究も続け、それがやがて一般社会学を含む『社会学の根本問題』に集約されて、形式社会学の構想が大幅に拡張されるのである。(ジンメル2004)
 他方、受容史的に見ると、シカゴ学派をはじめアメリカ社会学への多方面の影響があり、それらにはパーソンズを中心とする機能主義に対する対抗研究として位置づけられるものが多かった。乱暴な言い方を許してもらえるならば、60年代以降の社会学におけるパラダイム乱立の知的源泉はジンメルにある可能性がある。
 素人仕事? 雑学? 直感? そう言われながらも、未開地を発見し、それについて記述することを使命とする。こういった社会学像(「問題発見的な科学」)はジンメルが作り、ディシプリン化されつつも、たえずはみ出すものとして継承されてきたものだ。これをとりあえず「ジンメル的エートス」と呼んでいいだろう。この場合のエートスとは、精神的駆動力、知的な駆動力、あるいは知的使命感のことであり、それでもってディシプリンとしての社会学の原動力が成立するようなもののことである。
 しかし、受容史的に拡散してしまった「ジンメル的エートス」をジンメルに戻って理論的に明確に理解し、21世紀の社会学のディシプリンを構想しなおすことは、なかなか困難な仕事に見える。
 コンテンツにおいてジンメルは歴史的遺産である。しかし、昨今のジンメル・ルネサンスにおいて、ジンメルの業績を断片的なものとみなすのではなく、統一的な原理によって一貫したものであると見て、そのエッセンスを抽出していく試みがなされている。これによって、ジンメルが20世紀社会学というディシプリンに対して果たした重要な役割があきらかになるだろう。

■6 ネーデルマンの試み
 たとえば、ビルギッタ・ネーデルマンの概念的準拠枠論の試み(Nedelmann 2001)はその一例である。
 ネーデルマンは、ディシプリンとしての社会学がそのアイデンティティと自律性を喪失する危機にあるとし、隣接科学との境目もぼやけてしまい、社会科学というメルティングポットの一成分に埋没してしまっていると認識している。これは本稿のこれまでの議論と同様に「社会学の終わり」を認識しているということだ。そして彼女は、社会学を自律的な科学的ディシプリンとして21世紀に生き延びさせるために、ちょうど20世紀はじめの創始者たちが成功したように「社会学の領域」を再定義しなければならないと主張する。
 ネーデルマンはジンメルの『社会学の根本問題』第一章の「社会学の領域」を決定的に重要なものとみなして、ジンメルの概念的準拠枠を再構築する作業に入る。
 そのさいに留意しなければならないのは、ジンメルの業績に対する二つの反応である。ひとつはジンメル拒否であり、もうひとつはポストモダンのスタイルを賞賛するという反応である。
 いずれもジンメルの著作は首尾一貫したものでないという認識から出ている。しかし、ジンメルの社会学は高度な一貫性を示しているのではないか。リッケルトの言葉を借りると「非体系的なるものの体系家(者)」として。
 近年のジンメル・ルネサンスやジンメル研究会での議論や成果も、従来の「書き散らし型エッセイスト」としてジンメルを捉えるのは皮相的であり、内的にはジンメルは非常に首尾一貫した社会学像を提示したのではないかということが、ひとつの通奏低音としてあると思う。もちろんそれは従来的な形式社会学者としての一貫性ではなく(これはむしろルーズ)、社会学のディシプリンの構築者としての一貫性である。
 もう一度確認すると、彼女は「非体系的なるものの体系家(者)」としてのジンメルに注目する。近代世界が内的な一貫性と秩序を欠いているために、その混沌を体系的に理解するためには技術的な工夫がいると、ジンメルが考えていたことを反映している。
 その工夫が誘導的概念としての「相互作用」(Wechselwirkung)だったという。この誘導的概念を準備することによって社会学者は混沌的世界に身をさらすリスクを負うことができる。そこに賭けることができる。そればかりか、ジンメルにとって相互作用概念は社会学の誘導的原理でもあったという。この点についてネーデルマンは三点指摘している。
 第一に、相互作用概念は関係的局面を強調する。これでジンメルは、個人主義対集合主義の論争と、ミクロ社会学対マクロ社会学の論争とを明快に克服した。ジンメルは「経験の対象」によって社会学というアカデミックなディシプリンを定義することを拒否した。「経験の対象」を分析し、それを「認識の対象」へと組み直すような分析視角を特定すべきであるとするジンメルは、相互作用概念がそれに役立つと考えた。
 第二に、相互作用概念は、循環的因果関係あるいは自己準拠性という社会学的説明のタイプを表している。
 第三に、相互作用概念は、個人を超えた社会的単位の物象化と神秘化を拒否し、過程分析にコミットさせる。固定されたように見えるものを動態的関係の流動に解体する。たとえば「社会」は「社会化」(Vergesellschaftung)として言及されることになる。
 以上の三点、すなわち関係性、自己再帰性、過程分析こそが、社会学の誘導的原理として理解された相互作用概念に含蓄された社会学研究の必須要件なのである。
 今日において社会学の領域を再区画するのに、このようなジンメルの構想は役に立つとネーデルマンは考えている。さらに彼女は「社会化」の総体的過程を構成するサブプロセスとして、(1)「外在化」(2)「内在化」(3)「制度化」(4)「利害形成」の四概念をあげて論じている。これらについては割愛するが、ともあれ、ジンメルのライトモチーフを再導入することで、「社会学からの引き上げ(逃走・離脱)」を阻止できるのではないかというのである。
 完全なものでないかもしれないが、このネーデルマンの試みはヒントになる。ジンメルの理論的含意について新味はないものの、それを「社会学の終わり」に対する巻き返しとして位置づける点を高く評価したい。この方向の研究と、受容史的な研究とをかみあわせれば、拡散的に終わりつつある社会学をディシプリンとして再定義するのに役立つのではないかと期待できる。
「社会学とは、いつも社会学とは何かについて論じている科学である」という悪口も再び言われそうな気配である。しかし「社会学の終わり」を素直に受け入れるのでないかぎり、「社会学とは何か」そして「社会学の領域」問題について真剣かつ理論的に検討すべき時期だと思う。
 既に述べたように、私自身は、もともと「社会学の終わり」を受け入れることになるだろうとの予測を持っているが、社会学側からの抵抗を期待する気持ちも強い。それは社会学のもつ知的なエートスを自らの規律とする人間としての素直な感情である。したがって、私がこれからのジンメル研究の課題と考えるのは、たんにジンメルが彼の同時代の社会に対してどう反応したかではなく、現代の「社会学の終わり」という知的状況に対する抵抗拠点としてジンメルの理論構想をいかに再構築するか、そして、拡散する知的状況に対する現代的要請に具体的に応えていくことではないかと思う。

■7 応答
 最後に、討論段階で十分に答えきれなかった三点について若干補足しておきたい。
 第一に、ジンメルの貢献がもっぱらミクロ社会学にあるのではないかとの意見が出されたが、ジンメル社会学の可能性はミクロ社会学だけではない。『社会分化論』や『貨幣の哲学』を引き合いに出すまでもなく、ジンメルの社会学的視圏はきわめてマクロなスケールを持っている。個人も社会も相互作用の産物と見た彼の独特なスタンス(相互作用概念)は、社会というマクロな現象を十分に射程に入れているのである。今回紹介したネーデルマンの議論においても、それは前提了解になっている。
 第二に、相互作用論がジンメル社会学の説明力の弱さの源泉になっている可能性はないかとの質問があったが、私はその通りだと思う。生成の相において分析することは、直感的説明に流れやすく、手続き的に不備にならざるを得ない。たとえば、社会認識論の三つのアプリオリに典型的に見られるように、ジンメルは三つのものを同時に見据えようとしている。
(1)社会的なるもの
(2)社会外的なるもの
(3)理念的なるもの(社会的なるものに内属していながらも、実現されざるものとして社会外にあるもの)
 言わば「たえず外側に半身を置く姿勢」が相互作用論には随伴するようなのである。社会的なるものに内属した議論に終始できないという事情が、理論的な脆弱性を招いているところがある。その意味では、制度化されたディシプリンとして社会学を位置づけるのであれば、デュルケム的制度論を合わせて強調する必要はあると思う。
 第三点は、この点について討議中に考えたことである。相互作用論に基づくジンメルの社会学構想は、生成の相における社会学である。言わば「構築」と「過程」の社会学である。それに対してデュルケムは「制度」と「機能」の社会学と言えるだろう。もちろんデュルケムにも「集合的沸騰」といった生成の問いに関する重要概念がある。それぞれに社会学の全体的理論像を提示しているのである。しかし、それだけに両者の側面をつきあわせることで社会学というディシプリンの原点が確認できるような気がする。
 顧みれば、20世紀社会学の歴史は、ジンメル的な〈構築と過程〉論とデュルケム的な〈制度と機能〉論の二つのコンセプトがバイメタルのように社会学の両面を構成していて、振り子が振れるように〈構築と過程〉に傾いたり〈制度と機能〉に傾いたりしてきた。シカゴ学派が〈構築と過程〉を強調したのに対して、パーソンズとその周辺は〈制度と機能〉で対抗した。それがディシプリンの一本柱であるかに影響力を誇った瞬間に、各種の機能主義批判が噴出するが、それらはいずれも〈構築と過程〉を重視して対抗しようとする理論だった。
 このように理解するならば、社会学のディシプリンを、ジンメル的な〈構築と過程〉論とデュルケム的な〈制度と機能〉論のバイメタル的複合体として再構成できるかもしれない。別の比喩を使えば、社会学のディシプリンを、サラダドレッシングのような酢と油の対立的混合のダイナミズムとして再定義できるのではないだろうか。そう考えると「デュルケムとジンメル」という一見古風なテーマ設定は、非常に現代的なものに見えてくるのである。

■参考文献
早川洋行(2003)『ジンメルの社会学理論』世界思想社。
飯島伸子ほか編(2001)『講座環境社会学第1巻 環境社会学の視点』有斐閣。
居安正・副田義也・岩崎信彦編(2001)『ゲオルク・ジンメルと社会学』世界思想社。
居安正・副田義也・岩崎信彦編(2001)『21世紀への橋と扉』世界思想社。
松本正生(2001)『政治意識図説——「政党支持世代」の退場』中央公論新社。
北川ほか編(2002)『情報学事典』弘文堂。
Nedelmann, Birgitta (2001), “The Continuing Relevance of Georg Simmel: Staking Out Anew the Field of Sociology”, in: George Ritzer and Barry Smart (eds.), Handbook of Social Theory, Sage, pp.66-78.
野村一夫(1992)『社会学感覚』文化書房博文社。
野村一夫(2003)「ネットワーク時代における社会学教科書の可能性」『フォーラム社会学』第2号、関西社会学会、6-13ページ。
G・ジンメル(2004)『社会学の根本問題(個人と社会)』居安正訳、世界思想社(とくに「訳者付論」)。
イマニュエル・ウォーラーステイン(2001)『新しい学』山下範久訳、藤原書店。
イマニュエル・ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会(1996)『社会科学をひらく』山田鋭夫訳、藤原書店。

 

野村 一夫

野村ゼミ13期生1次選考合格者にメゾメディア工房への招待状を送りました

By | 6月 4, 2017

野村ゼミ13期生1次選考合格者にWorkplace by Facebookへの招待状をKEANのアドレスに送りました。指示通りに登録して下さい。いきなり最前線に投入します。LINEグループはあとで。

明日月曜日は2限からいます。エントリーシートを研究室に置いてきたので、LINEグループは明日つくります。KEANのアドレスに「メゾメディア工房」からの招待状が届いた人は1次選考合格です。30人を登録しました。招待状が来ない人は不合格ですので、そのつもりで次の2次選考に備えて下さい。発表はまだ先ですが。

野村 一夫

ガーリー総論(印刷版)

By | 6月 2, 2017

ガーリー総論が初期稿になっていました。『女子経済学入門』に掲載したものを再掲します。自分でヴァージョンが管理しきれていないようであります。


野村一夫の社会研究メモ
2016-01-15
ガーリー総論:社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察(野村一夫)
初出
女子経済学入門

ガーリーカルチャー研究リポート

編者 野村一夫

著者 国学院大学経済学部経済ネットワーキング学科1年2組全員・2015年度・基礎演習B

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ネット1年2組・基礎演習B最終課題

12月16日提示

冊子「女子経済学」プロジェクト

ガーリー・カルチャーの歴史・現在・可能性

未踏の領域を開拓しよう。

クラウド出版システム利用(新書サイズ)けっこう画期的!

課題 選択した文献・資料について、論点をまとめる形で解説し、そこから想像できる近未来のシナリオを提示せよ。A4で本文1枚以上10枚まで。写真は貸与された文献・資料の写真をふくめて3点まで。必ず自分で付けた見出しタイトルと自分の名前から始めて、最後に文献・資料のデータ詳細を正確に書いておくこと。図表などを入れたいときはスマホで写真を撮って画像データ(JPG)にすること。ネットから画像をパクることは厳禁。

2016年1月10日締切

すぐに編集開始

1月13日 クラスでゲラ最終校正のちトッパンによる微調整。即日、印刷工程へ。

1月20日 新書形式で出来。関係者に配布。非売品。

学生27人が参考文献のレビューを担当し、そののちに私によるまとめとして、つまり授業内企画の一環として、書き下ろしたものである。

ガーリー総論

社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察

野村一夫(国学院大学経済学部教授・社会学者)
 基礎演習Bの最終テーマは「女子経済学入門──ガーリーカルチャー研究リポート」である。なぜ「ガーリー」なのかというと、現代日本の経済・社会・文化において際だった創造的なカテゴリーだと感じるからである。とりわけポピュラーカルチャーとサブカルチャーの領域においては、ある種の美意識が駆動力になっており、それはたんに「女性性」には還元できない何か独特のチカラであると感じる。それが「ガーリー」である。従来は「カワイイ」として括られてきたが、この十年間に「女子」という言葉が急速に浮上するようになり、それとともに「ガーリー」領域の輪郭も見えてきたと感じる。
 その私の直感に沿って歴代の野村ゼミ(メディア文化論)では多くのケース研究をしてきた。今回は、そのために集めてきた文献を中心に一気にクラスで手分けして書いてみようという試みである。
 このような文化領域研究に関して思いいたるのは「まず言い当てる」ことがとても重要だということだ。それは学者ではなく評論家や編集者や広告代理店だったりする。アカデミズム的にはあまり尊重されているとは言えないが、この人たちが「まず言い当てる」ことからすべては始まる。「まず言い当てる」とは「名づける」ということだ。だから、ここから議論は始まるのであり、そのような文献を片っ端から読んでいくことが必要なのである。

●少女マンガからL文学へ

 そもそもガーリーなるものが明確に造形されたのは一九七〇年前後に大きく開花した少女マンガというジャンルである。もちろんこれは一気に花開いたわけではなく前史があって、それは戦前の吉屋信子の少女小説であったり、『赤毛のアン』であったり、手塚治虫の「リボンの騎士」であったり、その手塚に大きな影響を与えた宝塚歌劇団であったりする。これらは「少女」と括られる存在に焦点が当てられていた。「大人として成熟しない女子」それを巨大なジャンルとして確立したのが少女マンガであった。
 一九七〇年代の少女マンガに関しては、すでに古典的価値が認められており、多くの評論も出ている。なかでも初期の肯定的評価として代表的なものは、橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、一九七九年)である。この本は今は河出文庫版で読める。この本で論じられている作家は、倉田江美、萩尾望都、大宅ちき、山岸凉子、江口寿史、鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子である。彼女たちが描いた「純粋少女」の多彩な諸領域は、当時の女子だけでなく、男子たちをも魅了した。私も多くの作品を同時代に読んでいる。高校時代にツェッペリンやプログレに凝っていた男子が大学生になって少女マンガを読んだりアイドルに熱を入れたりしていたのである。そこに何か新しい美意識を感じていたと思う。
 このジャンルが再発見した「純粋少女」の世界は、のちに多産なコバルト文庫を生み出し、広範な文化領域に育つ。たとえば吉本ばななの文学的出発点は大島弓子の少女マンガである。それが九〇年代にはすっかりメインストリームになって、江國香織、角田光代、川上弘美、小池真理子、唯川恵たちのいわゆる「L文学」となる(齋藤美奈子編著『L文学完全読本』マガジンハウス、二〇〇二年)。彼女たちは、たんに女子世界の機微を描くエンターテイメントを提示しただけでなく、高い文学性も獲得していく。おそらく、それらは男性中心(マッチョであれ病み系であれ)の近代日本文学では語り得なかった領域だったのだと思う。

●ファッション

 女子ファッションの世界も一九七〇年代に自律的領域に高次化する。既製服の時代は六〇年代からで、それが主流になるのが七〇年代である。この先頭世代は「アンアン」と「ノンノ」に始まる新タイプの女性ファッション誌の編集者・モデル・読者であり、ショップの店員であった。この世代の代表として私と同い年(還暦!)のモデル・久保京子のケースを見てみよう。久保京子『わたしたちは、こんな服を着てきた』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、二〇一五年)によると、ヘップバーンのサーキュラースカート、ツイッギーのミニスカート、パンタロン、ベルボトムジーンズは六〇年代。ストレートヘア、マキシスカート、メイクとネイル、Tシャツ、トレンチコート、そしてDCブランドが七〇年代。何でもかんでも肩パッドの八〇年代、バブル末期のボディコン、本物志向の上質なリアルクローズの九〇年代、そして二一世紀のファストファッション。
 この流れは、今から見ると、ほぼリアルクローズの領域である。なぜなら、それらはちょっとムリすれば買えるものであり、ファッション誌は半ばカタログとして商品がどこにありいくらであるかを表示していたのであるから。もちろんグレードの差はあるにしても、である。とりわけ「ヴァンサンカン」とその姉妹紙「ヴァンテーヌ」は長く高級路線を貫き、とくに後者は高度なファッション・リテラシーの教科書的存在となった。
 メンズの窮屈な「定番志向」に対するレディースの軽やかな「トレンド志向」の構図は、約半世紀続いてきた。いつも新しい流れは女子が作ってきたのである。デザインやビジネスは男性たちが働いていたことはたしかだが、それを競争的に受容してきた女子層の分厚い消費者が文化的な感受能力を発揮してアパレル経済圏を支えてきたのだ。
 その中でさまざまなスタイルが分岐している。この厚みの中だからこそ、その内部で差異化戦略が作動して、多様なテイストが成長していると考えていいと思う。
 その中で注目したいテイストこそ「ガーリー」テイストなのである。広域渋谷圏において特定すれば、おそらく原宿あたりが発信地。代官山や青山や表参道のような「大人」テイストに対して、カラフルで装飾過剰で軽みのある脱デザイン理論的なファッションがその特徴である。代表的存在が増田セバスチャンの世界であり、それを体現している「きゃりーぱみゅぱみゅ」である(増田セバスチャンのサイトはhttp://m-sebas.asobisystem.com/およびhttps://twitter.com/sebastea)。
 かれらの世界はとても洗練されているが、それでも「ぎりぎりセーフ」感はある。じつは「ぎりぎりアウト」でもちっともかまわないのだ。このガーリーテイストには、それを実践する人たちに創作(あるいは二次創作)の余地があるのだ。大人の女性としてふさわしい「上質な無地のファッションにアクセサリー1点」なんてルールに縛られるのを拒否しているのはあきらかで、「下妻物語」の深キョンのゴスロリとまったく同質なのである。自分の工夫で何を足してもかまわない。大人の引き算をしないのだ。いわゆる「ひらひら、ふわふわ」ひたすら足し算を生きる。私はそこにガーリーファッションの「抵抗の哲学」を読み取る。

●アイドルグループ

 そうした先鋭的表現がリアルクローズ化したのが、二〇〇五年以降のアイドルグループだと私は位置づけたい。リアルクローズ化ということは、つまり身近でガーリーな「ロールモデル」になっているということである。
 女子高生風の制服集団がロールモデルになり得るだろうか。エロを求めるオタク男子に差し出されたカワイイ生け贄たちなのだろうか。そういう疑問はありうる。
 しかし、それはちがうと思う。なるほど地下アイドルやキャバクラ嬢や夜の街をさまようJKたちは、かなりかわいそうな生け贄状況を生きていて「なんとかならんか」と思うが、私たちが知っているメジャーなアイドルたちは、その中の勝者である。それゆえ「ロールモデル」になっていると思う。
 AKBは女子の生き方の典型的なロールモデルである。チアガールか体育会系の「勝利を信じて全力でことにあたる」生き方を体現している。「どんな条件でも、自分たちでなんとかする」というのが重要なポイントであって、ステージ上にはハプニングがいつも用意されていて、いかにそれを乗り越えるかが「隠れたカリキュラム」になっている。前向きな(前のめりな)努力の結果としての女子像がここで提示されている。
 それに対して乃木坂は、後発な分、よく考えられていて、ガーリー特有の線の細さに特化しているように見える。少女マンガのように、いつも繊細な女子像である。それは乃木坂のCDの付録映像に典型的に表現されている。ちなみに、ここは映像作家たちの実験場になっていて、これを見るためには三つのタイプを購入しなければならないのがやっかいだが、古いものはYouTubeにたくさんある。私は「乃木坂浪漫」シリーズですっかり感心してしまった。これは太宰治あたりまでの近代文学の朗読シリーズである。これらの作品群については『乃木坂46 映像の世界』(MdN EXTRA Vol.3、二〇一五年)を参照してほしい。
 ちがいはたくさんあるが、しかし、両者に共通なのは、多彩なロールモデル、チームワーク、ドキュメント性である。それは徹頭徹尾ガーリーな物語で、彼女たちのドキュメンタリー映画や裏トークなどは必然なのである。たとえば公式インタビューを参照してほしい。週刊朝日編集部編『あなたがいてくれたから』(朝日新聞出版、二〇一三年)と篠本634『乃木坂46物語』(集英社、二〇一五年)。ここには、ほとんど男子は出てこない。男子はファンたちと裏方さん(プロデューサーもマネジメントも職人さんも)である。
 あと、両方に共通しているのは、地方の女子校のノスタルジックなイメージが再現され続けているということである。全国展開するためのしたたかな戦略ではあるにしても、それが「ご当地アイドル」に直結していることは「あまちゃん」で、すでにはっきりしている。そして女子校。女子だけの世界であれば、かえって多彩な女子像が描ける。
 また、アイドルではないが、オシャレな女子に人気があるのがE-girlsである。こちらはプロフェッショナルなエンタティナー路線。総じて明るいガーリーテイストだが、E-girlsを構成するFlowerというグループは、もっぱら切ないガーリーテイストであって、女子に人気がある。ガーリーなロールモデルも分岐しているということである。この多彩さにも注目しておきたい。さらに東京ガールズ・コレクションでランウェイを歩くようなガーリーなモデルたちも、もっぱら女子たちに人気のロールモデルである。近年、彼女たちのファッションブックが相次いで出版されていて、それらは「こうなるためのマニュアル公開」のようである。
 視点を変えて労働経済学・労働社会学的に着目しておきたいのが、表現系若年女子労働の問題である。ガーリー領域の担い手たちは、そもそもデビュー自体が難関であり、活動できるようになっても激しい競争構造に放り込まれる。人気が出ても浮き沈みがあり、たとえばAKBでは「組閣」と呼ばれる人事異動が頻繁にある。しかも若いメンバーの大量加入によって、トップランクのメンバーも追い詰められている。表現系ゆえに個性の強い女子が集まるから衝突もあり得る。たとえば「ももクロ」の歴史はそういう葛藤の歴史であったりする。

●こじれた女子

 ガーリーなイマドキ少女マンガはないかと探して読んでみたのが『楽園』という季刊誌だった。白泉社なので王道だと踏んだ。とりわけ表紙を担当しているシノザワカヤの作品を読んでみると、言葉が多層的であるのに驚く。だいたい四層構造である。
(1)発話されたはずの吹き出しの言葉
(2)それに対する自分ツッコミの内声の言葉
(3)絵柄に埋め込まれた状況提示(空気感)の言葉
(4)作者が代理している神様か天の声のような倫理的な言葉
 この四層構造の中で主人公は立ちすくんで身動きできないでいる。これを「こじれた女子」と呼んでいいと思う。
 近年注目されているルミネのポスターが提示するのも、「こじれた女子」を抱えながらも突破口を探す、なんとも健気な女子像である。最近、若干の事故も生じたが、それも「こじれ」を表現するための伏線にすぎない。Pinterestでポスターをコレクションしてみたら、なかなかな味わい深いコンテンツである(https://www.pinterest.com/sociorium/)。
 すでにどこかで指摘されていると思うが、ルミネ的コピーの流れを作ったのは雑誌『オリーブ』だと思う。廃刊されて久しい雑誌だが、近年のガーリーカルチャーのめざましい展開において改めて源流のひとつとして注目を浴びており、二〇一五年に『GINZA』の別冊として一号限りの復刊とそれに関するボックスセットが出ている。セットにある『Messages from OLIVE』は特集や写真に添えられたコピーを集めた本である。これを読むと、ルミネ的「こじれた女子」世界は『オリーブ』の延長線上にあることが明確である。
『オリーブ』の世界観については、酒井順子の『オリーブの罠』(講談社、二〇一四年)が圧倒的な深さで論じている。酒井自身が『オリーブ』の愛読者であり高校時代からの執筆者であった。最初に確認しておきたいことは『オリーブ』自体は、それほどこじれてはいないということだ。ただ、ふたつの世界観をミックスしていたことが、のちのち読者に試練をもたらすことになる。それは「リセエンヌカルチャー」と「付属校カルチャー」である。どちらも都会のあか抜けた少女たちの世界であるが、前者は「おしゃれ至上主義、文化系、非モテ非エロ」であり、後者は「モテ至上主義、スポーツ系、おしゃれはママ譲りで実はコンサバ」という生き方である(一〇七ページ)。ヤンキー的・ギャル的な世界とは相容れない点で共通しているので『オリーブ』はそういう敵に対して上手に二つの世界観を同居させていた。「異性の視線ばかり意識した、モテのためのファッションなんてつまらない。自分のために、自分の着たい服を着ようよ!」(一二八ページ)という強いメッセージこそが重要だったからである。少女というキャンバスにおいてモードなファッションの意味合いは「濃縮される」ことになった。
 問題なのは、モテ系ファッション誌は人生の各段階で卒業できる仕掛けがあるが、自分のためのおしゃれ一筋というオリーブ的生き方には「卒業」がないことだ。つまり、ここからこじれるのだ。その結果、大人になってしまったオリーブ少女たちは晩期『オリーブ』のナチュラル志向に居場所を見いだす。無印良品、ナチュラル志向、生成り、無地、シンプルライフなど、さまざまな意匠に「オシャレのその後」を託したのである。
 酒井順子の解釈はここまでである。これをヒントにここ十年ほどのガーリーカルチャーを眺めてみると、『オリーブ』における「異性を意識しない独自のオシャレ世界観」は、世代を超えて生き延びていると思うのである。ところが、案の定、リアル世界の異性が女子に求めるものとは齟齬が生じる。「ベレー帽にロイド眼鏡で、『ブルーマンデー』をぶっ飛ばせ!」(『Messages from OLIVE』マガジンハウス、二〇一五年、三三ページ)なんである。こうしてオリーブ少女の一部はこじれていく。
 心情的な歌詞が訴求力をもったJポップには、こうした「こじれた女子」が満載である。メンタリティとしては中島みゆきが先頭にいたと思うが、中島美嘉は典型だと思う。オシャレで、病んでいて、こじれている。最近は「病み系女子」という言葉も流通している。彼女たちを救うのは、いったい何者だろうか。

●大人女子

 ガーリーは美意識である。ヤンキーやギャルたちとちがって、若いときにオシャレで洗練されたガーリーカルチャーの洗礼を受けて自分の世界観を構築してきた人が、仕事・結婚・出産・子育て・介護などを機にポンッと「卒業」するのは難しい。美意識というものは、それほど脆弱なものではないような気がする。オリーブ少女の場合、その克服の仕方のひとつがナチュラル系に収まるというライフスタイルだったが、それとは別のソリューションがロールモデルとして相次いで提案されている。
 言うまでもない、そのキーワードは「女子」である。「女性」ではなく「女子」を使用するとき、それは隠微な性的世界観からの離脱を宣言している。その跳躍台は「自分のためのオシャレ」という概念である。
 代表的ロールモデルは蜷川実花である。カラフルでガーリーな世界観を徹底的に追求する彼女の作品は、その実生活とともに高い支持を得ている。『オラオラ女子論』(祥伝社、二〇一二年)はその宣言書だと思う。
 そういうガーリー志向の大人女子の「言い分」をよく表現しているのは、先ほどのエッセイスト酒井順子と、『貴様、いつまで女子でいるつもりだ問題』を書いたジェーン・スーであろう。ちなみに後者の「貴様」とは四〇代になった自分のことである(幻冬舎、二〇一四年)。
 大人女子という言い方は、いろいろ波乱含みである。しかし、ここを押さえないとガーリー領域がたんなる極東の一時的なサブカルチャーとしてしか認識できないだろう。もちろん、そんなことはないのである。
 ここで片づけコンサルタント近藤麻理恵にふれておこう。キーワードは「ときめき」である。片づけと言っても捨てることではない。「ときめき」を感じるモノだけに囲まれて生きていこうという提案である。しばしば「断捨離」と混同されるが、決定的にベクトルが反対を向いている。彼女は、たんなる引き算を拒否するのである。これが世界中の大人女子に支持される理由である。世界で三百万部の本を売り上げ、『タイム』の「世界で最も影響力のある百人」に選ばれたのは偶然ではない。ときめくモノだけに囲まれて生きていくという文化的決意なんだと思う。経済学者はこの広大なガーリー領域に気づくべきであり、社会学者はそこに自己啓発的な愚かさを見るのではなく、ひとつの巨大な文化的覚醒を見いだすべきだと思う。
 カワイイカルチャーは低年齢の女の子を志向している。それは幼稚化とも言える。それに対してガーリーカルチャーは必ずしも幼稚化ではないのだ。手元にある月刊誌『LARME』(〇一八号、徳間書店、二〇一五年)の背表紙にはこう書いてある。「私たちは女の子として戦っていく」と。表紙にはSWEET GIRLY ARTBOOKと表示しているこの雑誌の基調は、徹底した美意識のありようの宣言のようである。これにはきっと続きがあるにちがいない。ガーリーテイストを貫く大人女子たちが一斉に街に出る日がきっと来る。

●ガーリーな男子

 昨今、男子もガーリー化している。
 たとえば手元にある『POPEYE』最新号の特集は「Thank you, Olive! もっとデートをしよう。そして彼女を笑顔にしよう。」である(二〇一六年一月号)。デートの仕方を伝授するのはポパイのお家芸だが、今回ここで教授されるのは「男子が女子の文化領域に積極的に入っていこう」というメッセージである。「俺についてこい」でもなく「君が行きたいところに行こう」でもなく、「自発的にガーリーな文化領域に習熟して、積極的にガーリー領域をいっしょに楽しもう」ということである。これは価値観と美意識を共有するということである。ムリにではない。自然に、である。体育会系やビジネスマン系の文化からは離脱して、ガーリー領域に居場所をみつけた男子たちである。ガーリーの方が俄然おもしろいと感じる男子たちだ。
 これには教員としていろいろ思い当たることがある。ちなみに今一番モテる男子は、こういうガーリーな男子である。その他の男子諸君は気がついているだろうか。
 たとえば、アイドルのところではふれなかったが、アイドルのオタクな男子ファンは、じつはかなりガーリーな人たちなのである。いわゆる肉食系ではない。アイドルとかれらのあいだには異性への恋愛感情もあるけれども、むしろ女子同士の友情的な感情に近いものが存在している。かつてのアイドルファンと言えば、たとえば大場久美子のコンサートなんか、強引にステージに上がって抱きつこうする男子がたくさんいて、ボディガードが次々にそういうファンを突き飛ばしている渦中で歌っていたりするのである。ちがうのは後期の山口百恵ファンだけで、そこは例外的に圧倒的に女子が多かったが、それは今のアイドルファン女子に通じるものがあった。「女子が女子に憧れる」そこらあたりを理解しないとアイドル現象はわからない。
 さて、ガーリー化する男子は、たいていファッションから入る。いわゆるオネエキャラの芸能人もたいていファションから入っているし、今もずっとオシャレであろうとしている。ごく一時期に使われた「メトロセクシュアル」がそれに相当する(マイケル・フロッカー『メトロセクシュアル』ソフトバンククリエイティブ、二〇〇四年)。
 これとはまったく別系統だが、いわゆるハードロックの人たちも同じで、レッド・ツェッペリン時代のジミー・ページなんか女の子みたいだった。ロック系には、今でもそういう美意識が連綿と引き継がれている。ヘヴィメタルがそうである。歴史的には「ピーコック世代」と呼ばれたこともある。スーツにネクタイという大人のスタイルに対する抵抗表現であった。ただし革ジャンのパンク系とは異なる系譜である。
 この文脈を広げて概観してみるとトランスジェンダーの領域が視野に入る。最近では安富歩・東大教授の例が注目を浴びた。かれ(あゆむ)は満州国の研究でデビューした経済学者で、その後、オルタナな経済学の可能性を追求する著作をたくさん出していたが、9.11のあとの原発に関する専門家たちの説明に対して『原発危機と東大話法』(明石書店、二〇一二年)を書き、広く注目された研究者である。その先生が、突然、女子化したのである(あゆみ!)。最新刊の『ありのままに』を読むと、その経緯が詳しく書かれている(ぴあ、二〇一五年)。前半を一言で言うと「女子の文化の方がリッチだ」ということになると思う。ただし、この先生にはそれなりの深い心理的葛藤があって、後半はそっちに主題が移るが、トランスジェンダーを「性同一性障害」という「病気」にしてしまうことには反対している。この本によるとマツコデラックスの番組にも出ているそうなので、もう怖いものなしである。おそらくこういう人がほんとうの「新人類」(死語だが)なのだと思う。
 ここで確認しておきたいのは、ガーリーというのは性的嗜好のレイヤーではないということだ。オッサンのみならずマッチョな若者もオバサンたちも田舎の人たちも、総じて低感度の人たちが取りがちなオッサン目線だと「エロ」で括ってしまうことが多いと思うが、ガーリー領域に居場所を見つけた人たちは、あまり性的嗜好のレイヤーでは物事を捉えていない。そういう「エロ」目線の居場所である大人の俗物的な領域こそが唾棄すべきものなのだ。ここは「聖域」なのだ。「神性の宿る場所」なのである。この点に誰よりも早く気づいて膨大な議論を展開したのが大塚英志だった。かれの『少女民俗学──世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』(光文社、一九八九年)はその記念碑的著作である。すでにタイトルに大塚の主張が集約されている。「神話」を「物語」に入れ替えれば、もっと正確になる。かれの言うように「少女」は「聖と俗」構図に当てはめれば「聖」の領域なのである。「聖なるもの」に志向した文化領域なのである。そこでのみ感じることができる物語の舞台を自分の居場所として感じる想像力がなければ成立しないのだ。

●ガーリー領域の六次元

 最後に議論を整理しよう。ガーリー領域とはいかなるものか。
 理屈はカラオケに似ている。カラオケは日本発の世界的発明(ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロット『カラオケ化する世界』青土社、二〇〇七年)。日本から世界に拡散したカラオケ文化をヒントにして、ここはひとつポジティブに考えてみよう。ちなみにネガティブな姿勢だと「そもそも論じるに値しない」と決めつけてスルーしまうことになるので、ちっとも展開力のある議論にならない。そういうことは、既成概念を食べて生きている優等生やエリートたち、そして若くしてすでにレガシーな大人たちに任せておけばよい。私たちは先に一歩踏み込んで叩き台になろう。
 これまでのざっくりした議論から、おおよその目安を付けて、これから(少なくとも野村ゼミと基礎演習で続くであろう)議論のスタートラインとしたい。ガーリー領域の基本特性を整理しよう。
(1)加算性、バロック、装置または装備、軍服と制服
(2)親密性、舞台仲間、楽園
(3)自分に萌える、自分物語の構築、外からの視線を拒否する、世間の空気を読まない
(4)非モテ、トランスジェンダー志向、女子目線の美、オッサン目線だとエロになる、ロマンチックラブ・イデオロギーに対する抵抗
(5)二次創作あるいはミメーシスの連鎖
(6)世界性、世界制覇、グローバリズムを変形する、ローカルな創造的変形
 以上をもって「ガーリー領域の六次元」と呼ぶことにする。「次元」ということは座標軸ということである。座標軸においてプラスとして捉えることにする。となるとマイナスのことも考えなければならない。かんたんに解説しておこう。以下の六つの説明を「ガーリー領域の六つのテーゼ」と呼ぶことにする。
(1)ガーリー領域のスタートラインは制服であり、その源流は軍服である。セーラー服はもともと海軍の制服である。あるいは通学中のリセエンヌたちの服装である。あるいは西欧の上流階級における少女たちのドレスである。いずれにしても性的領域ではないことは強調しておきたい。そうした定型的なファッションにひたすら加算するというチカラが働いている。何を足すかは学校や親ではなく本人たちの自由である。したがって、しばしばそれは無秩序で過剰になる。つまりバロック化する。ガーリー領域は「大人の引き算」をしない。その点で「大人のシック領域」とは正反対である。これがしばしば大人目線からの非難を招く。なぜなら「大人のシック領域」は世間からの保守的・道徳的視線に対する自己検閲であるから、一種のやせ我慢であり抑圧だから、それに従順な人たちには「ガーリー領域」は許しがたいのである。
(2)ガーリー領域には、あいまいな「世間」という概念がない。しばしば衝突が生じるが、それに対しては抵抗する。この抵抗は美学的なものである。その美意識を共有する人たちが準拠集団になる。親密性が頼りであり、舞台仲間のような人たちである。そういう人たちで完結できればガーリー領域は相互理解可能で自由な楽園である。
(3)ガーリー領域における焦点は常に自分自身である。「自分に萌える自分」(米澤泉『私に萌える女たち』講談社、二〇一〇年)が最大関心事である。自分の物語は自分で構築するという姿勢があって、その分、外部からの視線を拒否する。既成の保守的な世間の空気は読まない。
(4)ガーリー領域は、異性にモテることやセックスをすること、つまり「性欲領域」は志向しない。お互いが天使のようなトランスジェンダー的存在であろうとする。女子アイドルグループや女子校に典型的に見られるように、女子だけの組織や集団のときほど、そういう傾向が強い。競争的に美意識を先鋭化させるからである。「性欲領域」は忌避されるから「友情」の方に価値がある。そもそも「異性愛」と「友情」は次元がちがう。両方を満たす行為はあるが、ガーリー領域を逸脱することになる。これを「卒業」と呼ぶ。しかし「卒業」は「終わり」ではない。一時的な離脱なので許容できる。近年注目されるのは、「卒業」ののちに「復帰」する人が増加しているということである。
(5)ガーリー領域は加算性の文化なので、何でもありである。しかし、まったくの創造がなされるのではなく、既成のアイテムを引用したコラージュでありブリコラージュである。一種の二次創作だと理解すべきである。オリジナルのアイテムの世界観を借用して、過剰に模倣する「ミメーシスの連鎖」としての文化なのである。流行ではないのだ。
(6)ガーリー領域は現在は狭小な恵まれた平和秩序のある社会においてのみ存立する。他方、その他の広い世界において女性は抑圧され、性に拘束され、しばしば直接的暴力と構造的の犠牲になっている。逃げ場のない女性も多い。それに較べるとガーリー領域を宣揚することは不謹慎であり政治的に正しくないと言われそうである。けれども、それと同時に代替案を提示することも必要な政治的・社会的・経済的・文化的・性的課題なのである。
 男性も「男らしさ」の拘束に身動きできない人が多い。じつはゲームやコミックや地下アイドルにどっぷり浸かっている「オタク領域」も近いところにいるのである。リアルな女性とのコミュニケーションに気遣いして疲れるのでは社会生活を送れないことはたしかであるにしても、男らしさ満載のマッチョや、二四時間戦えるかを問われるようなビジネスエリートとは理想を共有できない人たちも多いはずなのだ。
 その意味でガーリー領域は世界性をもつ。グローバリズムの名の下に多様な生き方を許容しない生活を「変形させる」チカラがあるのではないか。何か社会が分岐点に至ったときに人びとが「あっちに行きたい」と思うような魅力的な物語世界が必要なのである。ガーリー領域にはそういう磁力があると思うのだ。

●女子経済学の誕生?

 一応ハテナをつけておいた。経済学部なので、とりあえず経済学としてみたのだが、この場合の経済学は、包括的な意味での「経済」(たとえばポランニーが議論したような)の研究のことである。本学経済学部経済ネットワーキング学科はそもそもこちらの経済概念に準拠している。そう考えれば「女子経済学」でいいのだ。
 このガーリーテイストな経済は、かなりジャパネスクなところがあると同時に、地球的な広がりも持っている。ただ日本においてのみ先に開花しただけであって、他の地域でそうならないのは女子たちが厳しい抑圧状況に置かれ続けているからにすぎない。真っ黒なブルカやニカブの裏地はガーリーに彩られているはずなのだ。日本発のガーリーカルチャーには、そういう裏地を表にする潜在力があると思う。このさい私たちは、美意識こそ人間の経済生活において大きな力を持ちうることを認識する必要がある。たんに所得の高さだけが消費を生むのではないのだ。そして、そういう文化を人びとが求めること自体が平和を維持する力のひとつになると思ってみたりする。たとえば、そのティッピングポインを東京オリンピックで作れないか。とんでもなくガーリーな東京オリンピック・パラリンピックだ。
 というわけで、われらが共同作品『女子経済学入門』の「ガーリー総論」としよう。
 各論を担当してくれたクラスのメンバーは、ほとんど十代である。メンバーにとっては、とっくに「歴史」になっている現象も多いと思う。それを「遅れてきた人」の視点から見るとどうなるかを読んでほしい。
 今回は日程的にとてもタイトだった。説明は一回だけ。冬休みにその課題をこなして休み明けにメール添付で提出してもらって、年明け最初の授業で校正して、その次の最終回で新書として配布するという荒技である。とっくに大人になってしまった人が見れば、この文章がもつ「いまさら感」は、こういう類いのことを初めて考える大学一年生たちのためのヒントになるように即興的に書いた導入的文章だからである。短いヴァージョンを正月二日に書いてみんなに提示して参考にしてもらった。そのあと加筆したのが、この文章である。正解のない文化的世界への招待状とならんことを願う。(二〇一六年一月二日の書き初め。最終稿は一月九日)

野村 一夫

野村ゼミ第2次選考

By | 6月 2, 2017
野村一夫 面接はありません。 1 表紙 氏名(よみがなも)と連絡先(すぐに対応できるアドレスかSNSアカウント)。
野村ゼミ希望と明記。
2 自己紹介とこれまでの大学生活(盛る必要はありません)。
3 卒業までの自分の目標(盛ってもかまいません)。
4「これから自分が学ぶべきことは何か」について「私のリスタート」というタイトルで書いて下さい。
5 2年次は土曜3時限目です。その前後にも作業をすることがありますし、3年次も土曜日の可能性があります。また、サマセとスプセにもゼミをやります。大丈夫ですか。事情があれば書いて下さい。原則的に特別扱いは認めませんが、事前相談は受け付けます(メールかSNSか815研究室へ)。
・A4であれば形式も文体も分量も自由。A4プリントの範囲内でセルフプロデュースしてください。手書きでも長くてもかまいません。私を主語にしてすべて自分の言葉(あるいは自分の撮影した写真)で書いて下さい。
・第1次選考ですでに29人の合格を出しました。第2次選考ではA+レベルのエントリーシート提出者のみ合格とします。
経済学部資料室
【6/16(金)正午~6/20(火)正午】

提出したExcelからコピペしましたが見づらいですね。本文をプレーンテキストでコピペしましょう。


教員名 野村一夫
面接はありません。
提出課題詳細
1 表紙 氏名(よみがなも)と連絡先(すぐに対応できるアドレスかSNSアカウント)。
  野村ゼミ希望と明記。
2 自己紹介とこれまでの大学生活(盛る必要はありません)。
3 卒業までの自分の目標(盛ってもかまいません)。
4「これから自分が学ぶべきことは何か」について「私のリスタート」というタイトルで書いて下さい。
5 2年次は土曜3時限目です。その前後にも作業をすることがありますし、3年次も土曜日の可能性があります。また、サマセとスプセにもゼミをやります。大丈夫ですか。事情があれば書いて下さい。原則的に特別扱いは認めませんが、事前相談は受け付けます(メールかSNSか815研究室へ)。
・A4であれば形式も文体も分量も自由。A4プリントの範囲内でセルフプロデュースしてください。手書きでも長くてもかまいません。私を主語にしてすべて自分の言葉(あるいは自分の撮影した写真)で書いて下さい。
・第1次選考ですでに29人の合格を出しました。第2次選考ではA+レベルのエントリーシート提出者のみ合格とします。 経済学部資料室 【6/16(金)正午~6/20(火)正午】
提出方法
経済学部資料室
【6/16(金)正午~6/20(火)正午】


書き方については、このブログをよく読んで下さい。第1次選考では、A+評価からB+評価までのエントリーシート提出者に合格を出しました。「なるべく学びのチャンスを与える」との考えで、すでに29人を合格としましたので、第2次選考は若干名しか合格を出せません。なのでA+評価のみを合格とするつもりです。質量ともに要求水準が高いので、負担が大きいわりにリスキーです。よく考えて他ゼミと比較考量して選択して下さい。

野村 一夫

野村ゼミ13期合格者の概要

By | 6月 2, 2017

ケースマに合否判定を入力しました。エントリーシートを出していながらケースマに登録していない1名を入れると、結局、第1次選考で47名が応募し、29名が合格となります。

内訳を見てみます。ちなみにエントリーシートを読んでいるときはいちいち属性を考えないようにしているので、私も名簿ができた段階で正確に知ることになります。

・学科別

経済学科7名
経済ネットワーキング学科10名
経営学科12名

・男女別

女子20名
男子9名

・コース別

マネジメントコース11名
情報メディアコース8名
その他10名

エントリーシートの課題はこの3期分でまったく異なりますので、期ごとに集まる人の共通点はちがっています。ここ3年、それ以前のサブカル歓迎ムードを一新して以来、ずっと女子が多くなっています。女子を集めると、たいていケンカするので、男女比は半々ぐらいがいいのはわかっていますが、面接なしのエントリーシート一発勝負でやっているので文章力の差がもろに出ます。総じて女子の方が自分語りは得意ですし、このブログをご覧いただければおわかりのように、私も細かく指導するので、それが理解できるかどうかもプロダクツにはっきり出ます。

で、これで終わりではなく、募集要項通り2次募集をします。若干名しか受け容れられないので、A+ぐらいのエントリーシートを提出した人だけにする予定です。3次募集はしません。

今回、合格できなかった人には2次選考で他のゼミに応募できます。野村ゼミにも再応募できますが上記の理由でA+しか合格できないので、ぜひ他のゼミを考えて下さい。これはマッチングの問題です。落ち込む必要はありません。ゼミ応募を諦めないで下さい。

それでも私のゼミに行きたいと思う方は、来年度「情報メディア問題演習」という1セメスター2単位のミニゼミに参加して下さい。今年度から科目演習シリーズが始まっています。「情報メディア問題演習」は担当者の私が派遣研究中なので休講扱いになっているはずです。来年度はやりますので、そちらでお会いしましょう。なので、ゼミには入るようにしておいて下さい。今回のエントリーシートに書いたことを面接で話せばいいんです。

野村 一夫

野村ゼミ募集結果速報

By | 5月 31, 2017

まず、昨夜から今日のお昼あたりまでに書いたFacebook友達限定の投稿とコメントを再録します。

ゼミへのエントリーが46名。このまま坂道シリーズになりそうな数字である。メメ坂46。学部や大学の支援があれば、このままゼミにしたいところなんだが、どうしたものか。他のゼミはせいぜい千字程度だが、うちは例年の合格者は1万字程度なので、みんな必死に書いてきているから落とすのがつらいんだよなあ。ま、とにかく全部読んでから考える。

土曜日のゼミだし、課題が自己分析みたいなもんなので、せいぜい訳ありの10人ぐらいかと予想していたのだが、「土曜日はゼミの日」キャンペーンが意外に効いたのか、それとも説明会当日の先輩たちの熱いトークが刺さったのか。

朝からずっとエントリーシートを読んでいる。途中、知っているクラスの子たちに呼び出しをかけたりしていたが、行きつ戻りつ読んでいる。まだ半分くらいだが中間考察しておく。
・2週間ほどしかなかったと思うが、きわめて多くの人たちが相当量の文章を書いている。もともと自分語りが得意なのか、私の文章指導がいいのか、うちの学生は文章が書けるのか。
・私はあえて大学時代のことを聞いているのに、多くの人が幼少期から書き始めて高校時代の記述が分厚くなっていて結婚式の披露宴のようだ。音楽系とかはわかるが運動系部活での努力を連綿と書かれても私は引くだけである。私は大学時代のことだけが知りたいのだ。
・ゼミ応募なんだから1年生の基礎演習のことを詳しく書いてアピールしてもよさそうなのに、それは少数である。クラスの子たちには他ゼミの面接では基礎演習のことを前面に出して話しなさいと指導しているのであるが。基礎演習、じつは、あまり影響を与えていないのか。
・他方、1年生のキャリアデザインの授業の影響があるせいか、資格取得をもって学生生活の課題としている人がかなり多い。私自身は「資格なんか制度化された世界での役割にすぎない」「ほんとうに君たちがやるべき仕事はまだ資格になんかなっていないんだ」とか言っているので、世界観レベルでマッチするのか考える。
・昔よくいた破滅型のおたくがいない。

資格について何か書いておいたかなと確認してみたが,以下の通り。「想定できるあるあるジャンル(能力)を挙げてみましょう。思いつき順。
英語力、交渉力、コミュ力、文章力、調査能力、テータ読解力、計算力、敏感さ、心のタフネス、協調力、ネットワーキング力、都市的感性、おたく力、想像力、創造力、読書力、雑談力、質問力、ヘルプ力、サポート力、リーダーシップ、フォローワーシップ、シティズンシップ、ボランティア精神、教養(歴史、科学、古典、哲学、地理など)、第2外国語力、コスメ力、女子力、筋力。いっぱいありそうね。」だよなあ。資格には見事に何も言及してないよね。
資格を取るなら、どう見たって野村ゼミ以外でしょう。

評価結果

提出されたエントリーシート43件を読みました。評価の基準はいくつかあります。人生とか人格を評価するものではありません。指定スタイルの中で「どれだけ考えて書いているか」を中心に、マッチングや熱意なども評価するようにしています。結果は以下の通りです。
A+ 7名
A 10名
A’ 4名
B+ 8名
B 6名
B’ 2名
C 6名
では、どこに線を引くか。常識的にはA+とAで17名というのがふつうでしょう。この17名は申し分ない。でも、読んでみて「ここまで来たんだからチャンスをあげたい」という人たちもいます。となるとA’とB+まで受け容れられるかな。ということでB+までゴーサインを出すことにしました。合わせて29名。要項で2次募集もすると宣言しているので、そこで数名Aクラスのエントリーシートを書いてきた人にゴーサインするとして30名プラスアルファでゼミをします。
さて、どうやるか? これから考えましょう。考えるべきポイントをメモしておきます。
・土曜日のゼミなので授業が少ない。なので事前に午前チームと午後チームに分けてゼミをする。午前は2限目とお昼休み、午後チームは3限と4限を使うとする。とは言え、相互浸透でよい。
・4年生に手伝ってもらう。
・Workspaceを活用する。
・基本的にアクティブラーニング。
・この人数だと日程調整が難しいので、お茶会をたくさんやって雑談をする。
なお、合格者の発表は経済学部全体の日程でおこないます。合格発表の段階で個々にお知らせをします。以上のような経緯から、すぐにネット上でコミュニティを作ってチームとして動けるようにします。野村ゼミは基本的に前のめりでやります。
野村 一夫

ゼミ第1次選考応募状況

By | 5月 30, 2017

おはよう! 今、午前4時55分の段階で希望者44人です。経営学科が多くなっていますが、そのうち9人は私が担当したクラスの子たちでした。だから、そんなにマーケティングとかとくに期待されているというわけじゃないみたい。見かけ上の希望者が多くても、下記の経済学会サイトからリンクされた情報をほとんどチェックしないで応募する人も少なからずいるので、たいていは力作を書いた人を選抜するだけでいいんですが、今の2年生は全員アクティブラーニングをクリアしてきた人たちなので、みんながみんな力作を書いてきたらどうしようか。若干うろたえています。

Businessman working with a business plan. Financial, currency, technology and money concept.

野村 一夫

2年生ゼミのための文脈棚

By | 5月 26, 2017

ゼミのシラバスにあげた本の棚写真です。一応,私の中では「文脈棚」のつもり。どんな文脈かはシラバスで。ちなみに今年度から野村ゼミはビジネススキルの方にシフトしますが、経営論とかマーケティング論とはあまり関係がありません。あくまでもトランスメディア・ワーカーへの直行リンクを目指します。過去にとらわれないで、未来派で行こう!

野村 一夫

野村ゼミQ&A

By | 5月 25, 2017

Q 野村ゼミは好きなことが自由にできるんですよね。

A いいえ、そんなことは言っていません。募集要項の「キーワード」を読んで下さい。

(2) キーワード
シラバスでは「到達目標」として公式文体で書いてあります。突っ込んで表現すると,こんな感じ。納 得できないときは事前に質問してください。卒業式まで、これで通します。

・ノンジャンル(好奇心いのち! 好きか嫌いかはどうでもいいじゃん
・速攻(前のめりでスタートダッシュ! スピード感を優先する)
・プロダクト(ひたすら作品づくり! 作ってみないとわからない)
・即興と対話(手ぶらで何が言えるか、何ができるか、何をわかりあえるか)
・オープンなマインドセット(すべて公開する不屈の根性)

Q じゃあ、先輩がおっしゃっていた「自由」って、どういうことだったんでしょう。

A ああ、それは「一定のスタイルの中で、自分たちで企画を立てなさい。コンテンツは自由だよ」ということを指しているのでしょう。それを「自由に何でもできるよ」と表現しているのです。勧誘の表現としてはいいんだけど、ちょっとボキャ貧かもね。

Q 「一定のスタイル」というのは、どういうことですか。

A それはメディアの形式とコンテンツのスタイルのことです。それは私があらかじめ計画を立ててシラバスに明示してあります。「メディアの形式」とは、シラバスの中では「新書形式」とか「ラジオトーク」という言葉で示しています。「コンテンツのスタイル」というのは論文なのかドキュメントなのか記事なのか物語なのかといったことです。たとえばシラバスの中では「ブックレビューによる新書制作」というのがあるでしょう。これは書評を書いて新書というメディアの形式として作品にするという意味です。

Q そう言えばシラバスにはたくさんの本のリストがありましたね。あれ、全部読むんでしょうか。

A 私は全部読むつもりだけど、みんなには選択してもらいます。まったくの自由ではなく、選択肢をたくさん用意しておいて「そこから選びなさい」というやり方をとります。

Q 先輩からのチェックは強いんですか。

A うちはかなり弱いと思います。後輩の面倒見はよくないですが、おせっかいもあまりありません。期によって集まるメンバーがかなり異なるので、なるべく同期の意向を尊重しています。ただし、今回の募集でメンバーが多数になったときは4年生に手伝ってもらうつもりです。とは言え、2年生は全員アクティブラーニング経験者ですが、4年生はそうではありませんのでFAのような感じにはなりません。

Q エントリーシートが難しいです。どうすればいいでしょうか。

A ま、自分の考えたことを書くのですから、内容はひとりひとりちがうでしょうし、調べて書くわけでもないから、それなりに書けると踏んでいます。ただし「考える」ということをしないと何も書けないと思いますよ。「考えて下さい。それを書いて下さい」というのがエントリーシートの主旨です。考えたかどうかが選考の条件です。もともと優秀だとか、実績がありますとかはどうでもいいと考えています。人それぞれに、これまでの大学生活を反省し、残りのの大学生活を構想してほしいのです。野村ゼミへの志望動機ではありません。最近思うのは「志望動機なんて、いらない」ということで、経済学部の推薦系入試でも原則として志望理由書は廃止しましたし、面接でも問題にしないことにしました。「動機のボキャブラリー」を使用して語るということにすぎないと考えます。私は「テンプレ面接」と呼んで撤廃を提案してきたのでゼミでも同様のことをします。

Q 受かるかどうか不安です。倍率はどうなんですか。

A それは,1つ前の投稿で書いておきました。どうなんでしょうね。3年生はいないですが、しっかりした4年生がいるので手伝ってもらえれば多少の大人数でもゼミはできると思っています。気持ちとしてはエントリーシートをちゃんと考えて書いた人ならゼミに入ってもらいたいし、かりに大人数になったらチームAチームKチームBに分けてやれるんじゃないかとか、昔から言っています。ただし、たとえばこの文章を事前に読んでなくて適当に書いたものが来ることもけっこうあって、私の意図が伝わっていない場合は今後も伝わらないことになるのが必定なのであらかじめ遠慮してもらいます。それはわかるんですよ。たったこれだけの情報をこなしきれない人って。だから、kgi.tokyo.jpにリンクしてあるものはちゃんと読んで納得してから応募してほしいと願っています。これはすべてのゼミに共通です。そういう明確な考えがあってkgi.tokyo.jpの直行リンクも作っているのです。

Q これから相談はできますか。

A 今週は研究会もあるので時間が取れません。来週早々なら研究室にいます。それじゃ間に合わないでしょうからメールかLINEかで質問して下さい。質問は具体的にお願いします。ネットでの応答には慣れています。

野村 一夫

野村ゼミQ&A

By | 5月 25, 2017

Q 野村ゼミは好きなことが自由にできるんですよね。

A いいえ、そんなことは言っていません。募集要項の「キーワード」を読んで下さい。

(2) キーワード
シラバスでは「到達目標」として公式文体で書いてあります。突っ込んで表現すると,こんな感じ。納 得できないときは事前に質問してください。卒業式まで、これで通します。

・ノンジャンル(好奇心いのち! 好きか嫌いかはどうでもいいじゃん
・速攻(前のめりでスタートダッシュ! スピード感を優先する)
・プロダクト(ひたすら作品づくり! 作ってみないとわからない)
・即興と対話(手ぶらで何が言えるか、何ができるか、何をわかりあえるか)
・オープンなマインドセット(すべて公開する不屈の根性)

Q じゃあ、先輩がおっしゃっていた「自由」って、どういうことだったんでしょう。

A ああ、それは「一定のスタイルの中で、自分たちで企画を立てなさい。コンテンツは自由だよ」ということを指しているのでしょう。それを「自由に何でもできるよ」と表現しているのです。勧誘の表現としてはいいんだけど、ちょっとボキャ貧かもね。

Q 「一定のスタイル」というのは、どういうことですか。

A それはメディアの形式とコンテンツのスタイルのことです。それは私があらかじめ計画を立ててシラバスに明示してあります。「メディアの形式」とは、シラバスの中では「新書形式」とか「ラジオトーク」という言葉で示しています。「コンテンツのスタイル」というのは論文なのかドキュメントなのか記事なのか物語なのかといったことです。たとえばシラバスの中では「ブックレビューによる新書制作」というのがあるでしょう。これは書評を書いて新書というメディアの形式として作品にするという意味です。

Q そう言えばシラバスにはたくさんの本のリストがありましたね。あれ、全部読むんでしょうか。

A 私は全部読むつもりだけど、みんなには選択してもらいます。まったくの自由ではなく、選択肢をたくさん用意しておいて「そこから選びなさい」というやり方をとります。

Q 先輩からのチェックは強いんですか。

A うちはかなり弱いと思います。後輩の面倒見はよくないですが、おせっかいもあまりありません。期によって集まるメンバーがかなり異なるので、なるべく同期の意向を尊重しています。ただし、今回の募集でメンバーが多数になったときは4年生に手伝ってもらうつもりです。とは言え、2年生は全員アクティブラーニング経験者ですが、4年生はそうではありませんのでFAのような感じにはなりません。

Q エントリーシートが難しいです。どうすればいいでしょうか。

A ま、自分の考えたことを書くのですから、内容はひとりひとりちがうでしょうし、調べて書くわけでもないから、それなりに書けると踏んでいます。ただし「考える」ということをしないと何も書けないと思いますよ。「考えて下さい。それを書いて下さい」というのがエントリーシートの主旨です。考えたかどうかが選考の条件です。もともと優秀だとか、実績がありますとかはどうでもいいと考えています。人それぞれに、これまでの大学生活を反省し、残りのの大学生活を構想してほしいのです。野村ゼミへの志望動機ではありません。最近思うのは「志望動機なんて、いらない」ということで、経済学部の推薦系入試でも原則として志望理由書は廃止しましたし、面接でも問題にしないことにしました。「動機のボキャブラリー」を使用して語るということにすぎないと考えます。私は「テンプレ面接」と呼んで撤廃を提案してきたのでゼミでも同様のことをします。

Q 受かるかどうか不安です。倍率はどうなんですか。

A それは,1つ前の投稿で書いておきました。どうなんでしょうね。3年生はいないですが、しっかりした4年生がいるので手伝ってもらえれば多少の大人数でもゼミはできると思っています。気持ちとしてはエントリーシートをちゃんと考えて書いた人ならゼミに入ってもらいたいし、かりに大人数になったらチームAチームKチームBに分けてやれるんじゃないかとか、昔から言っています。ただし、たとえばこの文章を事前に読んでなくて適当に書いたものが来ることもけっこうあって、私の意図が伝わっていない場合は今後も伝わらないことになるのが必定なのであらかじめ遠慮してもらいます。それはわかるんですよ。たったこれだけの情報をこなしきれない人って。だから、kgi.tokyo.jpにリンクしてあるものはちゃんと読んで納得してから応募してほしいと願っています。これはすべてのゼミに共通です。そういう明確な考えがあってkgi.tokyo.jpの直行リンクも作っているのです。

Q これから相談はできますか。

A 今週は研究会もあるので時間が取れません。来週早々なら研究室にいます。それじゃ間に合わないでしょうからメールかLINEかで質問して下さい。質問は具体的にお願いします。ネットでの応答には慣れています。

野村 一夫